母の介護 命に寄り添った日々
- 更新日:
- 公開日:
こんにちは。Ku-minです。母が倒れてから亡くなるまで約2年間の介護でした。 壮絶な状況になった母の命に寄り添った日々の出来事を書いていきます。最期は自宅で穏やかに兄弟3人で看取りました。あれから2年が経ち悲しみは時間と共に癒えてきました。みなさんそれぞれに多様な介護のストーリーがあると思います。このブログは私の介護ストーリーの備忘録です。
母が倒れ日常が 一変
母が倒れるすこし前、風邪を引いて、なかなか体調が整わないと不安そうだったので、生活のサポートをする為に3泊ほど実家に帰り食事や掃除をしながらゆっくりとした時間を過ごしました。
「腰を曲げて歩くのが楽になっちゃって自分でもびっくりよ。ほんと年をとったって感じるわ。」という母の姿を見ながら、随分と身長が縮んで姿勢が悪くなったなぁ と ここのところの急な身体の変化に戸惑いました。
老年になると栄養の吸収が悪くなって死に近づく現象があると知っていたので、密かに心配になり、何か対策を考えようと思っていたところでした。これが、母と過ごす[普通の生活]の最後の時間になるなんて 全く想像もしていませんでした。
東京に戻ってからも母の体調が心配だったったので、電話をすると、「なんとか大丈夫よ。心配かけちゃうね。」というので少しホッとして、長めの世間話をしました。お友達の娘さんが 病気で可哀想という話や、習っている大正琴の話や、若い頃体が弱かったのでこの歳まで生きていられる今の生活がとても幸せだという話を聞いて、電話を切りました。思い返せば この電話が母と話した最後の会話になりました。
電話を切って3時間くらい経った頃、電話が鳴って、それは兄からでした。
冷静を装う声で「お母さん、庭で倒れた!救急車で病院に運ばれたからすぐ来て!」と連絡がありました頭が真っ白になりました。夢の中の出来事ではないのかと何度も 何度も思いました。
「さっき電話で話をしたばかりなのに。大丈夫だって言っていたのに、元気に会話してたのに….!!」
半分、泣きべそをかきながら、急いで支度して、実家に向かいました。
「無事でいて!お願いだから無事でいて!」と心の中で叫びながら
1秒でも早く母に会いたくて、いつもなら乗らない新幹線に飛び乗り実家に向かいました。
病院に到着して、急いでICUにいる母の元へ行き ベッドに横たわっている母の耳元で「大丈夫?お母さん、急いで来たよ!」と話しかけたけど、全く反応がなく、
寝言のように、「大変なことになった!」とだけ言葉を発した後、症状はどんどん悪化の道を辿りました。
「小脳出血です。薬を入れたのでこのまま様子を見ましょう」と担当医に言われていたけど、次第にゴウゴウいびきをかき出して、明らかに悪化しているように感じる状態でした。
「なんだか様子がおかしいです」!とナースに伝え、再度、脳のレントゲンを撮ってもらうと、夜中の1時を過ぎた頃、
「出血が止まらないようです。このままだと命が危ないですが、手術しても命が助かるかわかりません。助かったとしてもかなりの後遺症が残るでしょう。どちらにするか辛い選択ですが、、、、。」と言われて、迷う事なく、
「全力で母の命を救ってください!」とお願いしました。
そして開頭手術への準備に入り、手術は5時間を超えました。
手術室から出てきた執刀医からの説明では、「手術の間、何度か命の危機がありました。
心臓が止まりそうになりました。が、なんとか、手術は終わりました。
今後も予断を許さない状況です。いつ逝ってもおかしくない状況と言えます。覚悟はしておいてください。」そう言われて、親戚に危篤の連絡を入れました。
夜中に集まってくれた親戚達は皆ショックでそれぞれが放心状態になりました。
こんな風にして、平和だった生活が、この日を境に一変することになりました。
恐怖と不安でいっぱいだった日々
母が倒れた日から、兄弟三人で代わる代わる病室の母に付き添いました。
しばらく予断を許さない日が続きました。3日目位から呼びかける声にかすかな反応があって、
私たちは、何ができるわけでもないけれど、必死で母に付き添い、ほんの少しでも命が戻ってくる小さな兆しを見つけては、「母はきっと回復する!」と希望につなげてました。
血流が悪くならないように体をさすってあげることしかできませんでした。
パンパンにむくんだ顔や身体、痛々しい開頭手術の傷跡、剃り上げられた髪、沢山の管に繋がれ目の前に横たわっているのは、いつもの優しく明るく暖かい綺麗な母の姿とは程遠くて、さらに悲しみが膨らみました。
私は、秒刻みで「がんばれ!」「がんばれ!」と、命を吹き込むように母に力を送っていました。
しばらくは集中治療室から動かせなくて、私たちは近くの控え室にいて面会時間が来ると母の元へ行きました。
手術後は脳に水が溜まって水頭症のような状態で亡くなる事があると言われ覚悟しました。1週間が過ぎて意識が戻ってきましたが、身体は動かず人工呼吸器で話もできない。しかしそろそろ人工呼吸器をを外す時が来ました。
ここで更に命が危うかった事件が起きました。抜管の際、舌が喉に向かって巻き込んでしまい窒息寸前になり、医師が冷や汗かきながら抜管できなかったと報告がありました。
喉に穴を開けての呼吸、気管切開をすることを余儀なくされ手術の予定を入れました。
母は意識が戻りつつありました。、気管切開のオペの前日も母に付き添いました。母は壮絶な状況の中まるで子供が駄々をこねるように夜中じゅうイヤイヤと首を横に振って私に訴えました。
「ごめん!おかあさん。気管切開しないと命がなくなっちゃうの。どんな姿でもいいから生きていて!ずっとそばにいるから!」と心の中で叫びながら母をさすることしかできない悲しみで涙が止まりませんでした。
翌日、予定通り気管切開の手術を行い、母は声を失いました。少し傷が落ち着いてきたら話ができるような「スピーチカニューレ」というのがあるから試してみようと話してくれました。どん底の気持ちに少し光がさしました。
集中治療室は大部屋で8床位あって、次々と命に関わる状況の人が運び込まれてきては、家族や親戚の人の応援や、泣き声が響き、残念ながら間も無く亡くなってしまう人の姿が目に入ってきて、胸が張り裂ける思いの日々でした。
そうこうしながら母は、いくつもの山を乗り越えて命をつないでいきました。
そして、ようやく命の危機を脱して集中治療室から移動する事ができました。それからは少しづつ少しづつ回復に向かっていきました。そしてリハビリを始められるようになりました。急性期の病院では、活発に回復に向けての取り組みをしてくれました。しかし ナースコールも押せない母ですのでつきっきりで側にいましたが、夜は帰ってくださいと言われました。
口から何か食べられるように嚥下の練習もして、私も少しでも母が回復できるよう全力を尽くしました。しかし、後遺症はひどく、四肢麻痺、飲み込みができず食事が出来ないので経管栄養、呼吸は自力で出来ないので気管切開、喉にカニューレを挿した状態で、回復は停滞し、なかなかその先に進めない状況でした。
それでも母は、「回復したい!」という意思を持っていて、頑張り屋の母の気持ちが痛いほど伝わってきました。面会時間が終わって帰らなければならない時間が来ると、
ナースコールも押せない、指一本動かせない母を病院に置き去りにして、私は「一緒にいてあげられなくてごめんね」と毎日泣きながら病院を後にしました。
あんなに我慢強い母でさえ、この状況においては太刀打ちできない様子で、
「お願い 側にいて!」と魂の叫びが響いてくる。それを聞きながらも、病院のシステムで帰らなくてはならない。まさかの地獄絵図、本当に辛くて、今でも思い出すと涙が止まりません。
母はもっと辛かったと思います。気管切開の痰の吸引は、2時間置き位に必要なのに、夜中は看護婦さんが2人しかいなくて、何度かは見に来てくれるのでしょうけどゼロゼロと溜まってくる痰がからんだ苦しい呼吸を朝まで我慢しなければならない状況でした。
毎日やってくる長い長い夜、辛く苦しい夜だったと思います。入院して4ヶ月が経ち、病院の決まりで療養型の病院へ転院しなければならなくなりました。母のような重病な患者を受け入れてくれる療養型の病院は1件だけ、やむなくそこにお世話になることになりました。
母の命が危ない!なんとか助けたい!
転院したその日に、「ここはダメ」と母が口パクで言っているのがわかりました。
院内は、もう明らかに活気がなく、看取り専門病院のような感じがして、私も「ここかぁ」と心が沈む思いでした。
廊下を通って母の病室に行く時、各病室のドアーはどこも全開で、病室のベッドに横たわっている おじいさんや おばあさんは大きく口を開けたまま微動だにしないという風景が目に入ってきました。私は大きなショックを受けました。
一体 この社会はどうなっているのか?この状態で生きてるって言えるのか?長寿大国日本って喜ばしい響きの現状は、こんなにも壮絶だったなんて、知らなかった!
そんな無知な自分を恥ずかしく思いながら、病院で暮らす、身体が不自由になった老人達の絶望的な現状を見て、これは姥捨山なみだなぁ。どうにかしなきゃならない大きな問題だと思いながら自分の老後を考えるとゾッとしました。
初日はたくさんの書類にサインをして、今後の病院生活についての説明がありましたが、一番驚いたのは、もし母が何かの病気になったり今の症状が悪化しても、他の病院で治療する事は出来ません。という契約書にサインをしなければならなかった事です。
この病院は療養型の病院なので大した設備がないと説明があったばかりで、いったいそれはどういうことなのか? 一瞬戸惑いました。それは、「そこまでして助ける命ではないでしょ。」「何かあったら悪あがきはしないで静かに逝かせてあげましょう。」ということなのだと察しました。
サインするのは、そうとう躊躇しましたが、母のような症状の患者はどこにも受け入れてもらえないので、泣く泣くサインする以外選択肢がありませんでした。
例え、どんな姿になっても、私にとっては今までと何の変わりもなく大切な母でしたが、
病院では、このような症状になってしまったら、もう「人」扱いされない。価値のない生き物として扱われるのだと感じて、深く心が傷つきました。
この日から毎日ここの病院へ通って付き添いましたが、案の定、リハビリも前向きにしてくれない、身体を動かすと転倒のリスクがあるからと、なるべく動かさない、車椅子にもなかなか乗せてくれず、徐々に、母は衰弱していきました。
わかっていてもどうすることもできない状況でした。それからしばらくして、担当医に呼ばれて、母の経管栄養の管の取り替えが困難になってきていると言う話を聞かされました。
管の取り換えは、管を飲み込むようにして胃に送っていくのだけれど、母は飲み込みの機能が衰えてきたのか管の取り換えにかなりの困難を要したとのことで、次回は、取り替えができない可能性があり、その場合、管から入れていた栄養の代わりに、点滴からの栄養になります。そうなると長く命が持たないので、そのまま看取りになると思いますという話でした。
ここにきて、また 母の命の危機!
こんなに医療が進歩しているというのに、管が胃に入らない事で命を落とさざるを得ないってどういうことなの?
どうにか母の命を救うために嚥下の機能を回復させなくては!と次のミッションに向けて、兄弟で相談する日々が続きました。
「嚥下の機能を高めるには!」ネット検索で 辿り着いた[読脳]
ネットで、嚥下の機能を高めるにはどうしたら良いか、毎日 検索しまくりました。
高齢の患者さんに 口から物を食べることを推奨してる看護婦さんがいて、
嚥下の機能を高めるための取り組みをしながら、患者の家族にそのやり方を教えるセミナーなども開いていました。
これは可能性があるかもしれないと、セミナーに参加しようと思いましたが、人気があって定員オーバーにより残念ながら参加する事ができませんでした。
他に何か方法はないかと、ネット検索する日々でした。嚥下の機能を良くするという、グッズを買って、母と取り組もうとしましたが、いまいち母が上手くできませんでした。
病院側の人たちから「また娘が変なことをしている」的な視線が痛くて、堂々と取り組めず上手くいきませんでした。そんな中、脳の情報を読んで調整する[読脳]のYouTubeの動画に出会いました。胃ろうで一年も口から水を飲んでいなかった男性が、読脳の調整によって嚥下の機能が回復し、お茶を飲んでいる動画です。コチラの動画です。
この2年半後、問題なく口から食べているとのこと。こちらの動画です。
読脳のブログにこの方に関する記事がありました。嚥下障害や、胃ろうについての記事です。こちらです。
これはすごい!奇跡的、マジックみたい!けど、本当なのだろうか?さらに「読脳 嚥下」というワードで検索をすると他にも沢山、驚きの動画が出てきました。
いやぁ〜、すごい動画を見つけてしまいました。
この先生は何者なのでしょうか?これが、本当だとしたら、こんなにすごい事ができるのですから、治療費は、かなりの高額でしょうか?
読脳のサイトも見てみたけれど、、ワークショップで体験するにはスクールで学ぶ事が前提ということです。
私のこの歳で(アラフィフ)スクールで学ぶことが、能力的に出来るのか不安です。
身体のことや医療の知識は まるで無いし……。
母の状況は今 使っている管が劣化したら危険な状況になってしまうので、できれば今すぐ対応が必要だけど、今から学び始めて間に合うだろうか?
介護の忙しい日々の合間に、ちゃんと学べるだろうか?等々、後から後からぐるぐると不安材料が頭の中を駆け巡り、どこからどう考えていけば良いのかわからなくなってしまいました。
母の状況は待った無し!で、刻々と経管栄養の管交換の時期は迫ってきていました。
そんな中、小田原の教育関係の先生と会う機会があって、
その方は、とても交友関係が広い方なので、ダメ元で「読脳」をご存知かと聞いたところ
なんと、知り合いがやっているから紹介するので体験してみたらどうかと言ってくださり、
早速、 翌日 会いに行ける段取りをつけてくれたのでした。怪しいところだったら騙されたりしたらどうしよう!と心配だったけど、その辺りは大丈夫そうでした。
[読脳]は怪しくなかった!
なんという幸運でしょう。
「読脳」をやっている知り合いがいるなんて。
母の命にまた希望の光が灯って、翌日、早速 小田原まで体験をしに行きました。
その方はとても誠実そうな方で、時間をかけて丁寧に読脳の理論や伊東先生の事や、
その人が、読脳にたどり着いた経緯を話してくださり、読脳体験させていただきました。
タッチ検査で心臓の機能が良くないと言われ、びっくりしました。
2日前、母に付き添っている時に突然胸が苦しくなり、
母のベッドに体を横たえて しばらく動けなくなったことを思い出しました。
読脳して調整してもらった後、体の調子がとても良い感じがして、体のだるさがなく軽くなりました。
体験の感想は、「読脳」に可能性を感じ、学んでみたい!」という気持ちになりました。
母の調整ポイントも出してもらって早速 翌日病院で試したところ、肩関節、足の関節は、引っ張るとかなり緩んでいて抜けている感覚がありましたが、調整後に再度 身体の手足を引っ張ると
関節に弾力が出て 、しっかりと抜けなくなっている感覚がありました。そのまま調整を続けてやっていくと 母の顔色も良くなってきて、読脳の可能性を実感しました。
読脳の開発者 伊東先生についても、信頼できる方だという話を聞いて安心し、これでやっと頑張る方向性が見えてきた気がしました。
読脳のワークショップ体験
それから色々 考えました。
小田原まで行って、体験させてもらって可能性を感じる事ができた「読脳」だけど、この先、どう繋げていけばいいのか?読脳を学びに小田原まで行くのは遠すぎるから、新宿の本部で体験してみようかな? 私にもできそうだったらスクールで学んでみようかな? 伊東先生に実際に会って、目の前で奇跡の現象の体験をしてみたいな。でもなぁ、この歳で できるかなぁ〜?
と思いながらも、モジモジと考えていた所、業を煮やした兄から
お母さんの嚥下障害が良くなるんだったら騙されてもいいから行ってきなよ!もう時間がないよ!
といわれて、その言葉に背中を押されて一歩前進する事ができました。早速、体験をさせてもらえるよう読脳アカデミーに予約をいれました。
母は療養病院で、だんだん衰弱していき、心房細動、慢性心不全、慢性呼吸不全、胸水、無気肺と、病名が増えてきてました。
そんな弱った身体でも母はなんとか生き抜こうとしているように私はに感じていて、何とかして回復に導きたいと思っていた所、読脳の体験にこぎつけました。
そして、[参加目的をご記入ください]という書類に、
母の脳の情報を読み、体調を回復させることで、療養病院から、自宅へ連れて帰って、母との最後の時間を豊かな気持ちで過ごしたい。
母の状況にショックを受けて不眠になってしまった近所のおばさん達に、「本当に連れて帰ってきたよ!」と言って、希望を持たせたい。
伊東先生の「生ーシステム」と、「幸せに生きる哲学」を学びたい。
読脳を学んだ後、自分の学んだ事を生かし、人の役に立つ活動をしていきたいと思い、1日体験の参加を希望します。
と、参加目的を書きました。
読脳の動画で、体験に来たのに帰らされた人がいたので、
ここで「ふるい」にかけられては大変だと思いました。
この人は学ぶ意志がしっかりしてると思ってもらえるように、文章を書き詰め、やる気満々な自分をアピールしました。できる限りの本数の動画も見て下準備は十分に仕上げていきました。
そして、いよいよ読脳ワークショップ体験の日、
「スクール1日体験」では動画と同じく、伊東先生は、目の前で不思議な現象を見せてくれました。それは、何とも信じがたいもので、まさに奇跡のようでした。
私の現状も奇跡を起こさなければ母を救えない状況にあったので、素直にその現象を信じて、抵抗することなく受け入れ、何とかして自分も読脳が出来るようになりたい、ならなければ!と強く思いました。
伊東先生の講義からは、困っている人を幸せの境地へ導きたいという、真摯な思いが伝わってきて、いくつか残っていた ほんの少しの疑いの気持ちは消え、読脳で、母を救えるかもしれない!いや、読脳で、絶対、母を救う!と、重ねて強く決心しました。
ワークショップで母を読脳してもらい、教えていただいた調整法を毎日コツコツ行うと、嚥下の機能が回復してきたのか、ある時、担当医から経管栄養の管を、今回は取り替える事が出来ましたというお知らせがありました。ひとまず、母の命が繋がった!とホット胸をなでおろしました。
話しながら舌を噛んでしまい口内が出血してしまうという困った問題もあったので相談した所、読脳していただき調整ポイントを教えてもらえました。1度の調整によりピタッと改善し驚きました。
とても不思議な出来事でしたが、間違いなく読脳のおかげで、母の命がひとまず救われました。
まだまだ 沢山ある母の辛い症状を、読脳で、回復出来るかもしれないと、希望を持つ事が出来ました。
読脳を学びはじめた
スクールに入学し「CWハピネスフィロソフィー読脳」を学び始めました。
最初に提出した小論文に、「療養病院から母を自宅に連れて帰りたい。」と書きましたが、心の底からそう思っていたものの、実のところは、医療依存度の高い母を自宅に連れて帰って介護をする事が自分に本当に出来るのか、全く自信がありませんでした。
2ヶ月が経ち、どんどん衰弱していく母の症状を読脳でなんとかしたいと思い、伊東先生に これらの症状を良くするためには、どこをどう調整をすれば良いのか質問したところ、
必要なのは症状を何とかする事ではなく、お母さんを自宅に連れて帰ることですよね。脳に設定した事がブレてないかもう一度しっかり考えて!
と言われ、はっとしました。
私は、最初の設定から逃げていました。医師からは、この状況で自宅での介護は 無理だと言われていたし、気管切開の痰の吸引や、経管栄養の注入など、今まで経験した事もない事をする自信がなかったのです。
母を救いたい、だけど自信がない。体力もない。自分との葛藤が続いていました。そんな時、伊東先生の講義の中で、
命がけでやれる事に出会った時、それはチャンスです。そうそう そんなチャンスに出会う事はありません。自分が大きく成長できる機会です。という話があり、まさに、今、私に話してくださっているかのように心に響きました。
刻々と衰弱してる母に、今向き合わなかったら絶対 後悔する、命がけでやってみよう。誰がなんと言おうと、母を自宅に連れて帰る!母を救う!そう思って、脳に設定し直し、その日帰宅してから早速、在宅療養の支援診療所を探しました。
すると、なんと 思いがけなくスムーズに受け入れてくれる病院が見つかりました。気まぐれで決意してももう戻れませんよ。責任は重いですが大丈夫ですか?と聞かれ 命懸けでやってみる決意が固まりました。
入院していた療養病院の担当医は、無理なことを言わないで!帰り道で呼吸が止まるかもしれないよ!と脅されもしましたが、「覚悟はできていますから!」と伝え、どんなことが起きようと後悔せず 精一杯 母の最期をサポートしよう!と兄弟3人で話し合い、病院で母のケアーのすべてを教えてもらって、とうとう母を自宅に連れて帰ることに成功しました。
3ヶ月目に目標を達成!by 読脳
読脳を学び始めて3ヶ月目に目標を達成する事ができました。
母の命の責任は、病院に代わって私が引き継ぎました。
訪問看護師さんの協力の元、日々、バイタルをチェックし、衛生管理、排便、経管栄養、痰の吸引、口腔ケアー、医療器具の管理から補充、そして心のケア、掃除、洗濯等、
命がけの介護の日々が始まりました。
病院生活では、四肢麻痺でナースコールも押せず、気管切開で声も出せない母は、毎日、私達兄弟が病院に到着するのを心待ちにしていて、面会時間が終わると、お願いだから側にいて!とばかり悲痛な表情で訴えているのに、置き去りにせざるを得ない状況が、とても、とても辛かったので、「自宅に帰ってこられて本当に良かった。」と、この奇跡に感謝を思わない日はありませんでした。
それから、毎日毎晩、誰かしら母の隣にいてあげる事ができて、いつでもサポートしてあげる事ができるようになって、毎朝「おはよう」の言葉と共に「帰ってこられて本当に良かったね!」と言わない日はありませんでした。
ただでさえ、気が狂うであろうほどの身体的苦痛を抱えながら、療養病院の生活では、便意を催しても 待たされ、オムツが汚れても時間が来るまで取り替えられず、話声が大きすぎるとか、荷物が多すぎるとか、病院の都合でカーテンを締め切りにされたり、母の体調に合わせて車椅子に乗せてあげることもできず、モヤモヤした気持ちを抱えながら面会に行っていたのですが
母にしてあげたかった事の一つ一つが、これからは制限なく自由にしてあげられるようになったのです。
部屋の窓から見える庭の景色は、母が元気だった頃、育てていた花が、母を励ますように咲いて、母と季節を楽しんだり、免疫を上げるというモーツアルトや、昭和の歌謡曲を音量を気にする事なく聴いて楽しんだり、お天気が良い日は、窓をあけて太陽の暖かさを感じたりしました。
普通の生活をしていたら全くありがたいと感じなかったであろう小さな出来事を、母は心に染みるように 心地よく感じていたと察します。
脳出血の後遺症は壮絶な状態で、あたりまえにできる事が、できなくなっていた為に、些細な事がとても大切で、ありがたく感じる事ができました。
長い間、口から物を食べていない母に、苺やみかんをガーゼに包んで口に入れてあげるとウンウンと頷きながら、味覚をしみじみ思い出すように感じていたり、
声の出せない母と無言の会話をしながら、目と心で交流し、穏やかに優しく過ごした時間はとても貴重な体験でした。
自宅で安定的に過ごす状態になるまでに、何度か危険な状態にもなりましたが、どうにか、乗り越える事ができ、命綱の経管栄養の管の交換の手段もクリアになりました。
読脳で調整していくと少しづつ手首が動くようになって、母は神経を集中しながら一生懸命 思い出すように動かそうとしていました。
声を出す練習では気管切開のカニューレをスピーチカニューレに取り替えて、声帯あたりの機能の調整をして音をだす試みをしました。
自力で呼吸ができるように肺の機能を読脳して調整したり、手の拘縮が見られた時には、伸展する筋肉を調べて調整したり、動かしたい筋肉の調整をしたりしていくうちに、少しづつ少しづつ身体の機能が回復していきました。
覚えたてでおぼつかない読脳に挑みながら調整し、少し回復した喜びを、また次に繋げながら、試行錯誤の日々でした。
近所のおばさんや、親戚の人が、涙ながらに、「自宅に帰ってこられて本当に良かった!」と、母を励ましにきてくれて、人の優しさに触れたりして、病院生活ではできなかった事を、自分たちが思いつく事すべてを、母にしてあげる事ができました。
母が静かにこの世をさりました
自宅に連れて帰って10ヶ月を過ごして、母は、2日間眠ったまま目を覚まさなくなり、そのまま静かに息を引き取りました。
とうとうその時は訪れ、今まで見た事がない美しい表情で冷たくなっていきました。「もう苦しまなくていいよ。本当によく頑張ったね。」と声をかけました。
長い間 、私が怖れていた「母の死」ですが、眠ったまま、穏やかに だんだん呼吸をしなくなって 静かに この世の人ではなくなっていきました。最後のお別れの 悲しみと共に、命がけの介護をしてあげられて本当に良かったという思いが、じわじわ込み上げてきて、涙が止まりませんでした。
2年間も壮絶な状態で 頑張って生きた、母から見せてもらった「生き抜く力」は、
母から私への「最後のプレゼント」になりました。
母の介護で学んだ事は沢山ありますが、常に恐怖と不安にまみれていた心が、いつの間にか母を支えるパワーに変換できていた事は自分でも驚きでした。
読脳の伊東先生の講義を聞く度に、恐怖と不安にまみれていた心が、少しづつ解放されて、最初は母の症状に翻弄されて一喜一憂していた自分でしたが、少しづつ、自分らしく生きる事を意識できるようになってきました。
母はこの2年間に沢山のことを私たちに教えて、この世を去っていきました。その中でも私を読脳に出会わせてくれた事は、一番、感謝したい出来事になりました。
まとめ
皆さん、突然の不幸な出来事についてのエピソードをお伝えしましたが、心の準備はできましたか。
長い人生では、誰にも平等に 突然襲いかかってくる不幸な出来事があって、それは、心の問題かもしれないし、体の問題かもしれない。
あなたやあなたの大切な家族がその日を界に「普通の人」ではなくなる事があります。
私は 頭の中が真っ白になって何も考えることができませんでした。この現実をどう受け止めたらよいのか?
どんな辛い出来事も、自分が成長する機会に変えるんです。自分に向き合うチャンスです。と伊東氏からアドバイスをいただきました。
私のケースでは、母が倒れたあの日から、生活は一変し、不幸のどん底に突き落とされた気分で
毎日が不安と恐怖で押しつぶされそうでした。しかし 振り返ってみれば、深い悲しみ、苦しい日々、命がけの取り組みの体験が、今になってみれば、どれほど自分の自信に繋がり成長させてくれたか計り知れません。
幸運なことに、「読脳」に出会い、伊東氏のアドバイスをはじめ、スタッフやスクール生の方々の励ましや、難病を克服しようと果敢に自分の命に向き合っているスクール生達の姿から、心も支えられ、母の命が尽きるまで、全力で取り組むことができました。
それから家族の協力や、兄弟の連携、親戚の応援たくさんの要素があって、医療依存度の高い母を自宅に連れて帰ることができました。伊東氏のアドバイスで調整しながら最後の看取りまで、母の命に責任を持って対応する事ができました。
母は倒れた日から、何もできない、ただ息をするだけの存在になってしまいました。
社会にとっては、倒れた時点で役に立たない迷惑な存在として扱われることになりました。
でも、私にとっては元気だった時以上に、母の存在価値は大きくなりました。
強く生きることを教えてくれたり、母の暖かさを感じさせてくれたり、食べることの大切さや、身体の機能の大切さ等、言葉にできない位、沢山のことを教えてくれました。
人はどんな状態になっても、命が尽きる最後の瞬間まで(私が感じるのは命がなくなっても)その存在には、意味、理由、必要があると強く感じる事ができて、伊東氏から学んだフィロソフィーに、大きく頷ける介護体験となりました。
今回の介護体験で気づいた事の一つとして
「人はそれぞれ違う目線で生きている」
「役目が違うと、思いも違う」
なので良い 悪いの判断をしない!
ということです。
私の役目は、自分のことが何もできなくなってしまった母を守ることでした。
病院で忙しく動き回る看護婦さんは精一杯働いていましたが、母のような手が掛かる患者に対して仕事が増えてしまい迷惑そうな感じがありました。
医者は母の状態を私に説明するのを面倒に感じて、「それを聞いてどうするのですか?」と不機嫌な様子を見せたりしました。
親戚は、私が母の介護をする様子をみて「自分は娘にそんな風にやってもらえるかしら?」という心配に繋がったり、
「自分はそこまで親にできない!比較されたら困るなぁ。」と、
私の介護をする姿を見て
それぞれの目線で、それぞれの思いがあったように思われます。
時々、人からの言葉や態度に、心が揺れる事がありましたが、それぞれ、守るものが違って、背景が違って、役目が違うのだから、それぞれの思いを否定するものではないと、心のモヤモヤを処理しました。
小さい頃から、私は、母との繋がりが とても深く心地よく繋がっている感覚がありました。愛する母への最後の親孝行はこんなふうに幕をおろしました。
親子の関係は、いろいろありますね。千差万別なので、100人いたら100通りの介護ストーリーがあります。
自分と、人とは違う!全く違う!だからこそ個を感じることができる!
周りから批判されても、否定されても、受け入れてもらえなくても、
心の底にある自分の思いや 感覚を、大切にして、ブレずに、自分の存在を受け入れ、自分が感じる価値観を大切にして生きる事は、とても重要で、その軸をしっかり持つことが大切だと学びました、
自分を知り 自分軸を育てて 本当の心地よさを感じることが幸せにつながる道です。この社会でうまくやるためにはこうあるべき自分ではなく本当の自分をしっかり持ちながら社会と付き合うこと。
そうすることで傷つき、疲弊する事は なくなるのだと感じます。
介護をした2年間。いろいろな出来事からたくさんの学びがありました。今、介護真っ最中の人、これから介護になりそうな人へ、介護が良い時間となりますように、心からエールを送ります。
人はどんな状態になっても、この世に生きている限り、生きる 意味、理由、必要があるんです。
母が亡くなってから 癌になった弟のサポートをし 看取りました。
弟は、末期癌で壮絶な痛みと闘いながらも、自分より辛かったであろう母を思い出しては「まだまだ母よりはましだから!」と言って亡きき母の闘病を思い出しては心の支えにしていました。弟の命の最期まで心の支えになっていた母の姿でしたが、母は弟の為に身を呈して闘病したのかもしれません。
人生は生まれる前から生きるストーリーが出来上がっているのかもしれないですね。
長文でしたがここまでお読みいただきありがとうございました。