雷に打たれる女性

こんにちは。Ku-minです。母が倒れてから亡くなるまで約2年間の介護でした。 壮絶な状況になった母の命に寄り添った日々の出来事を書いていきます。最期は自宅で穏やかに兄弟3人で看取りました。あれから2年が経ち悲しみは時間と共に癒えてきました。みなさんそれぞれに多様な介護のストーリーがあると思います。このブログは私の介護ストーリーの備忘録です。

母が倒れ日常が 一変

辛い女性母が倒れるすこし前、風邪を引いて、なかなか体調が整わないと不安そうだったので、生活のサポートをする為に3泊ほど実家に帰り食事や掃除をしながらゆっくりとした時間を過ごしました。

「腰を曲げて歩くのが楽になっちゃって自分でもびっくりよ。ほんと年をとったって感じるわ。」という母の姿を見ながら、随分と身長が縮んで姿勢が悪くなったなぁ と ここのところの急な身体の変化に戸惑いました。

老年になると栄養の吸収が悪くなって死に近づく現象があると知っていたので、密かに心配になり、何か対策を考えようと思っていたところでした。これが、母と過ごす[普通の生活]の最後の時間になるなんて 全く想像もしていませんでした。

東京に戻ってからも母の体調が心配だったったので、電話をすると、「なんとか大丈夫よ。心配かけちゃうね。」というので少しホッとして、長めの世間話をしました。お友達の娘さんが 病気で可哀想という話や、習っている大正琴の話や、若い頃体が弱かったのでこの歳まで生きていられる今の生活がとても幸せだという話を聞いて、電話を切りました。思い返せば この電話が母と話した最後の会話になりました。

 

電話を切って3時間くらい経った頃、電話が鳴って、それは兄からでした。
冷静を装う声で「お母さん、庭で倒れた!救急車で病院に運ばれたからすぐ来て!」と連絡がありました頭が真っ白になりました。夢の中の出来事ではないのかと何度も 何度も思いました。

「さっき電話で話をしたばかりなのに。大丈夫だって言っていたのに、元気に会話してたのに….!!」
半分、泣きべそをかきながら、急いで支度して、実家に向かいました。
「無事でいて!お願いだから無事でいて!」と心の中で叫びながら
1秒でも早く母に会いたくて、いつもなら乗らない新幹線に飛び乗り実家に向かいました。

病院に到着して、急いでICUにいる母の元へ行き ベッドに横たわっている母の耳元で「大丈夫?お母さん、急いで来たよ!」と話しかけたけど、全く反応がなく、
寝言のように、「大変なことになった!」とだけ言葉を発した後、症状はどんどん悪化の道を辿りました。

「小脳出血です。薬を入れたのでこのまま様子を見ましょう」と担当医に言われていたけど、次第にゴウゴウいびきをかき出して、明らかに悪化しているように感じる状態でした。

「なんだか様子がおかしいです」!とナースに伝え、再度、脳のレントゲンを撮ってもらうと、夜中の1時を過ぎた頃、

「出血が止まらないようです。このままだと命が危ないですが、手術しても命が助かるかわかりません。助かったとしてもかなりの後遺症が残るでしょう。どちらにするか辛い選択ですが、、、、。」と言われて、迷う事なく、

「全力で母の命を救ってください!」とお願いしました。
そして開頭手術への準備に入り、手術は5時間を超えました。
手術室から出てきた執刀医からの説明では、「手術の間、何度か命の危機がありました。

心臓が止まりそうになりました。が、なんとか、手術は終わりました。

今後も予断を許さない状況です。いつ逝ってもおかしくない状況と言えます。覚悟はしておいてください。」そう言われて、親戚に危篤の連絡を入れました。

言葉が出ない女性

 

夜中に集まってくれた親戚達は皆ショックでそれぞれが放心状態になりました。

こんな風にして、平和だった生活が、この日を境に一変することになりました。

 

恐怖と不安でいっぱいだった日々

母が倒れた日から、兄弟三人で代わる代わる病室の母に付き添いました。
しばらく予断を許さない日が続きました。3日目位から呼びかける声にかすかな反応があって、

私たちは、何ができるわけでもないけれど、必死で母に付き添い、ほんの少しでも命が戻ってくる小さな兆しを見つけては、「母はきっと回復する!」と希望につなげてました。

血流が悪くならないように体をさすってあげることしかできませんでした。
パンパンにむくんだ顔や身体、痛々しい開頭手術の傷跡、剃り上げられた髪、沢山の管に繋がれ目の前に横たわっているのは、いつもの優しく明るく暖かい綺麗な母の姿とは程遠くて、さらに悲しみが膨らみました。

私は、秒刻みで「がんばれ!」「がんばれ!」と、命を吹き込むように母に力を送っていました。

しばらくは集中治療室から動かせなくて、私たちは近くの控え室にいて面会時間が来ると母の元へ行きました。

手術後は脳に水が溜まって水頭症のような状態で亡くなる事があると言われ覚悟しました。1週間が過ぎて意識が戻ってきましたが、身体は動かず人工呼吸器で話もできない。しかしそろそろ人工呼吸器をを外す時が来ました。

ここで更に命が危うかった事件が起きました。抜管の際、舌が喉に向かって巻き込んでしまい窒息寸前になり、医師が冷や汗かきながら抜管できなかったと報告がありました。

喉に穴を開けての呼吸、気管切開をすることを余儀なくされ手術の予定を入れました。

母は意識が戻りつつありました。、気管切開のオペの前日も母に付き添いました。母は壮絶な状況の中まるで子供が駄々をこねるように夜中じゅうイヤイヤと首を横に振って私に訴えました。

「ごめん!おかあさん。気管切開しないと命がなくなっちゃうの。どんな姿でもいいから生きていて!ずっとそばにいるから!」と心の中で叫びながら母をさすることしかできない悲しみで涙が止まりませんでした。

翌日、予定通り気管切開の手術を行い、母は声を失いました。少し傷が落ち着いてきたら話ができるような「スピーチカニューレ」というのがあるから試してみようと話してくれました。どん底の気持ちに少し光がさしました。

集中治療室は大部屋で8床位あって、次々と命に関わる状況の人が運び込まれてきては、家族や親戚の人の応援や、泣き声が響き、残念ながら間も無く亡くなってしまう人の姿が目に入ってきて、胸が張り裂ける思いの日々でした。

そうこうしながら母は、いくつもの山を乗り越えて命をつないでいきました。
そして、ようやく命の危機を脱して集中治療室から移動する事ができました。それからは少しづつ少しづつ回復に向かっていきました。そしてリハビリを始められるようになりました。急性期の病院では、活発に回復に向けての取り組みをしてくれました。しかし ナースコールも押せない母ですのでつきっきりで側にいましたが、夜は帰ってくださいと言われました。

口から何か食べられるように嚥下の練習もして、私も少しでも母が回復できるよう全力を尽くしました。しかし、後遺症はひどく、四肢麻痺、飲み込みができず食事が出来ないので経管栄養、呼吸は自力で出来ないので気管切開、喉にカニューレを挿した状態で、回復は停滞し、なかなかその先に進めない状況でした。

それでも母は、「回復したい!」という意思を持っていて、頑張り屋の母の気持ちが痛いほど伝わってきました。ku-min-trying-hardの画像面会時間が終わって帰らなければならない時間が来ると、

ナースコールも押せない、指一本動かせない母を病院に置き去りにして、私は「一緒にいてあげられなくてごめんね」と毎日泣きながら病院を後にしました。

あんなに我慢強い母でさえ、この状況においては太刀打ちできない様子で、
「お願い 側にいて!」と魂の叫びが響いてくる。それを聞きながらも、病院のシステムで帰らなくてはならない。まさかの地獄絵図、本当に辛くて、今でも思い出すと涙が止まりません。

母はもっと辛かったと思います。気管切開の痰の吸引は、2時間置き位に必要なのに、夜中は看護婦さんが2人しかいなくて、何度かは見に来てくれるのでしょうけどゼロゼロと溜まってくる痰がからんだ苦しい呼吸を朝まで我慢しなければならない状況でした。

毎日やってくる長い長い夜、辛く苦しい夜だったと思います。入院して4ヶ月が経ち、病院の決まりで療養型の病院へ転院しなければならなくなりました。母のような重病な患者を受け入れてくれる療養型の病院は1件だけ、やむなくそこにお世話になることになりました。

母の命が危ない!なんとか助けたい!

転院したその日に、「ここはダメ」と母が口パクで言っているのがわかりました。
院内は、もう明らかに活気がなく、看取り専門病院のような感じがして、私も「ここかぁ」と心が沈む思いでした。

廊下を通って母の病室に行く時、各病室のドアーはどこも全開で、病室のベッドに横たわっている おじいさんや おばあさんは大きく口を開けたまま微動だにしないという風景が目に入ってきました。私は大きなショックを受けました。

一体 この社会はどうなっているのか?この状態で生きてるって言えるのか?長寿大国日本って喜ばしい響きの現状は、こんなにも壮絶だったなんて、知らなかった!